当寺の開基は北堂左京太夫と伝えられる。その後多気国司北畠中納言具(とも)教(のり)の臣中村左近尉が北堂氏の遺跡である中藤原に城塞を築き当寺をその菩提寺と定め、その家臣達もここに葬られたから寺勢も盛んであった。北畠氏の滅亡に伴い中村氏も衰え、豊臣氏の頃には滅んだから寺の勢いも振わなくなり、わずかに草庵程度のものがあったに過ぎなかった。その後水崖存吸和尚が来て薗田氏等と力をあわせ寺を建て、その師名張徳蓮院二世直道伝龍を招請して開山とした。雄山碩峯の時再建したが、その後荒れがひどくなったので五世法厳智  >続きを読む
享保17年に建てられた本堂